日本にいた頃の私は、「自分は誰よりも強い」と慢心していた。人よりも世界のあり方や日本の未来を考えているつもりで、暗記型教育や政治を強く批判した。「暗記などAIの得意分野だ。必要なのはその情報をどう制御し、どう生かすかだ」と。
だがその正論すら、結局は日本のシステムから逃げ出し、決断を先延ばしにするための都合のいい言い訳に過ぎなかった。完璧に計画された大胆さを理由に、何ひとつ自分の思うような形にできないまま時間を浪費し、自分自身が「不適合」という形で日本基準に歪んで適合していたことにも気づけずにいた。
ドイツへ渡り、嫌でも己の弱さと向き合わされることになった。
まず、身体だった。日本で続けていたトレーニングに自信があった。ある程度は鍛えているつもりで、ドイツでも通用すると思っていた。しかし現地のスポーツ施設や、日常のちょっとした運動で、すぐに差を痛感した。
特に印象に残っているのは、公園にいったときのことだ。周囲の人間は軽やかに動きトレーニングをしているのに、自分だけが力なく動く。息が喉に絡み、視界が少しぼやける。終わったあと、ベンチに座って自分の膝を見ながら思った。「これまで何をやっていたんだろう」。日本でのトレーニングは、結局、自分を安心させるための自己満足に過ぎなかったのだと、そのとき初めて理解した。
次に、授業だった。ある授業のことだ。テーマは「答えのない様々な問い」についてだった。教師が問いを投げると、すぐに何人もの生徒が手を挙げ、次々と自分の意見を述べ始めた。誰かが話し終えると、別の生徒がすぐに反論し、さらに別の生徒が別の視点を加える。教科書を開くことも、ノートに必死に書き写すこともない。発言し、議論すること自体が「授業に参加する」という意味を持っていた。STEAM的な思考と対話が、当たり前のように飛び交う空間だった。日本の授業の何倍も刺激的で、正直、楽しかった。
それなのに、私は手を挙げることができなかった。頭の中ではいくつか考えが浮かんでも、ドイツ語でうまく言える自信がなく、言葉を選んでいるうちに次の発言者に移ってしまう。心臓が喉のあたりで小さく鳴っているのがわかった。手を少しだけ机の上で動かしては、また止める。結局、最後まで黙ったまま授業が終わった。
教室を出るとき、他の生徒たちの笑い声が後ろで弾んでいた。「言語の壁があるから仕方ない」と自分に言い訳したが、本当は翻訳アプリを使ったり、拙いドイツ語でもいいから口を開く選択肢はあった。私はただ、逃げるための理由を探していただけだった。あんなに日本の暗記教育を批判し、「思考を表現することが大事だ」と語っていたはずの自分が、実際の場では何もできなかった。批判するのは簡単だった。実際にその場で思考を表現するほうが、どれほど難しいかを、身をもって知らされた。
日常のコミュニケーションも同じだった。スーパーやバス停で、現地の人が気軽に話しかけてくることがある。簡単な世間話なのに、私はいつも短く返事をして、会話を早く終わらせようとしていた。相手の目をまともに見られず、視線を商品や地面に落とす。翻訳アプリを出せばもっと話せるのに、鞄の中で触ることすらしない。ドイツ語が下手なことを理由に、積極的に関わることを避けていた。日本では「周りと違う自分」をある種のプライドにしていたのに、ここではそのプライドすら守れず、ただ小さくなっていただけだった。
日本人という属性を取り払ったとき、手元に残ったのはそうした敗北の痕跡だけだった。鍛えていた身体能力もコミュニケーション能力も、ドイツの基準で見れば「ごく当たり前」のレベル。今の私は、一般的なスタートラインにすら立てていない。「少し変わった日本人」という殻を被っていただけの、中途半端な何者でもない自分。
そんな折、メガネが折れた。ただ、いつものようにそこら辺に放置していたはずのメガネが、気づいたら丁番部分が折れていた。安物だったのか、ただの不運だったのか。修理に出す金銭的な余裕も、すぐに新しいものを買う気力も、そのときはなかった。ぼやけた景色の中での生活が始まった。人の顔の輪郭が溶け、看板の文字がにじむ。その不鮮明さが、これまでの敗北と重なって、急に耐えられなくなった。身体も、授業も、会話も、学業も、すべて中途半端なまま来て、最後にメガネまで折れた。まるで「お前の心も折れろ」と言われているようだった。実際、そのとき私の心は、はっきりと折れた。
夜、部屋の明かりを消して、折れたメガネを枕元に置いたまま、長く天井を見ていた。誰にも特別扱いされない。期待もされない。ただの一人の、まだ何もできない人間として扱われることが、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。日本にいた頃の自意識が、どれだけ孤島に守られた幻想だったかを、改めて思い知った。
ドイツで目にした光景は、日本とは根本から違っていた。人々が、自分を隠さずに生きている。目を輝かせ、声を上げ、好きなように振る舞っている。通りを歩けば、見たこともない顔立ちや、聞き慣れない言葉が当たり前に混ざっている。海に閉ざされていない土地には、さまざまな人生が流れ込んできて、それがそのまま街の空気になっている。そして何より痛感したのは、ここでは「個性や異才」が特別ではないということだった。授業で鋭い意見を次々に出す生徒たちも、日常のちょっとした会話で軽やかにやり取りする人たちも、身体能力で私を軽く上回る一般の人たちも、みんな「普通」だった。日本にいた頃は、少し考えているつもりで、少し鍛えているつもりで、「自分は周りと違う」と自意識を持っていた。けれどここでは、それが通用しない。上には上がいて、それがごく当たり前の風景として広がっている。日本で見ていた世界が、いかに狭い井戸の底だったかを、否応なく思い知った。
もちろん、その自由には代償がある。ある日、街を歩いていて、目の前で若い男が空き缶をポイ捨てした。ゴミ箱はすぐそこにあるのに、彼は何の躊躇もなく放り投げて去っていった。缶が地面に当たって乾いた音を立てる。その数分後、別の人が吸いかけのタバコを地面に押し付けて歩き去る。煙が風に乗って顔にかかった瞬間、胸がむっとした。喉の奥が少しだけ痛み、嫌な臭いが鼻に残る。私はタバコの煙が苦手だ。日本では周囲に気を遣って吸う場所を選ぶ人が多かったが、ここではそんな配慮がほとんど感じられない。煙もゴミも、まるで「自分の自由だ」と言わんばかりに、公共の空間に放り出されている。
最初は強い不快感と怒りに近いいら立ちを覚えた。汚いし、無神経すぎる。好きに生きる自由が、他人の快適さを踏みにじる権利にまでなっているように見えた。でも同時に、どこかで「これが自由の形なのか」とも思ってしまった。誰にも気を遣わず、自分の都合だけで動ける。日本で長年染み付いていた「周囲への配慮」が、ここではほとんど機能していない。彼らは個人の自由を優先する代わりに、公共の秩序や美しさを、かなりの部分で手放しているのだ。
逆に日本は、公共の調和を守るために、個人の逸脱や自由な表現を長く抑えてきた。歩きながら、胸の不快感と一緒にふと思った。自分が日本で感じていた息苦しさの正体は、この「配慮の強さ」だったのかもしれない、と。
「空気を読む」ことで成り立つ社会と、「自分の意見をぶつける」ことで前に進む社会。どちらが正しいわけでもない。ただ、大切にしているものの重心が、ずれているだけなのだろう。そしてそのずれを、不快な煙の味と一緒に、今、身体で突きつけられている最中だった。
だが、少なくとも今は、井の中で正論を語っていた頃よりは、自分の足で立とうとしている。
次の授業で、私は手を挙げた。指先が少し冷たくて、挙げる途中で躊躇した。教師の視線が自分に向いた瞬間、頭の中が真っ白になりかけた。言葉は拙く、途中で詰まった。うまくまとまらなかったと思う。それでも、黙って終わるよりはましだった。教室を出るとき、自分の手がまだわずかに震えているのに気づいた。
自分から短い会話を始めてみたこともある。相手は普通に応じてくれた。特別なことが起きたわけではない。ただ、逃げなかったという事実が、少しだけ残った。
言語の壁も積極性のなさも、まだ完全には乗り越えられていない。それでも、言い訳を探すのを少しずつやめ、手を挙げる回数を、話しかける回数を、一回でも増やそうとしている。それが、井の外に出た自分にできる、最初の本当の行動だと思っている。